当記事は、奈良県出身の私にしても馴染みの少ない宇陀市大宇陀から吉野郡東吉野村を縦横する国道166号線と、その前身である旧国道166号線の紀行録、両沿線に存在する旧道の遺構探索を綴っている。奈良県桜井市と宇陀市の市境となる女寄峠より発し、三重県松坂市粥見までの約65km、10時間の旅の記録である。今回の主旨である国道166号線は、榛原街道、伊勢街道、和歌山街道と称されており奈良、京都、和歌山から伊勢へと向かう主要経路の一つとして登場し、歴史は古い。
この国道166号線の起源は関連文献を辿るに、鎌倉末期から街道としての記載が見受けられた。
それ以前の時代における街道として確証立てる史料は、執筆時点ではわからない。
ともかくも、8世紀ほど遡ることでこの街道がどのような歴史を残してきたのかを知ることができる。
朝廷、伊勢、幕府。この街道の歴史の主旨を理解するにはこれらの政治的な権力を考えなければならない。
政治的見地からの伊勢街道(国道166号線)に関する歴史的仔細は、各研究文献を参照していただくとして、本記事はそのような歴史的背景を念頭に置いて街道を実地検分した時の印象と、旧道の現役時代の遺構探索の発見、現状をできるだけ客観的に記述しようと思う。

旧国道166号線「女寄峠」

奈良県の橿原市を東または、南へ歩みを進めると一般的に周知されている奈良の印象は次第に薄れ、険しい山岳地帯へと変貌していく。
奈良東中部の山岳地への入口が宇陀であり、奈良盆地からその宇陀への入口が女寄峠であり、今回の国道166号線の旅の出発地点である。
この峠の歴史は浅く、大宇陀町史を開いてみると、1888年に荷車が開通し、宇陀の木材が隣の桜井市の木材町に運ばれることで茶屋なども賑わったようである。それ以前の徒歩の時代である江戸期は「半坂峠」(筆者未確認)が幹線道路であったらしい。
後年、国道166号線として昇格をしたが、バイパス「女寄トンネル」が開削されたことにより国道としての役割を終え、現在は交通も過少となり草木が脇を茂らせ、道路標識も古色を帯び、旧道の様相を呈している。トンネルの出入り口が峠に近いところに位置しており、寂然とした感はない。
特筆すべき事柄もない峠ではあるが、奈良盆地から宇陀盆地への入口であり、高見山へ通じる宇陀山地の始まりであることを意識するとより先の旅を楽しめるのかもしれない。

国道166号線「佐倉峠」

佐倉峠は宇陀市と東吉野村の境を成している峠で、宇陀山地の奥宇陀への入る入口となる峠である。
1885年に荷車が通行できる道路として開通。史料によれば、それ以前の佐倉峠は悪路であり荷車が通行するには不適切な粘土地であったらしい。
当日、峠の開削が難工であったことを念頭に実地を訪れてみると平坦な宇陀市側から確認した限りではそのような事情は感じることができなかったが、東吉野村へ入村したことにより難工事であったであろうと実感することができる。
先にある宿場町「鷲家」に至るまで急坂とまではいかなくとも坂が継続し、自然が形成した谷間を利用していないことから当時(明治時代)の開削技術の観点から察すると道路の敷設には困難を極めたことが伺える。
現下の交通量は、先にある鷲家から吉野上市に抜ける「奈良県道16号吉野東吉野線」が分岐しているので1分間に3台ほどは通過している様子であった。この峠を越えること宿場町鷲家が先にあり、いよいよ奥宇陀の険しい山岳地帯へと入岳になる。


遙かなる江戸「宿駅鷲家」

佐倉峠を下り、鷲家に到着し、東吉野村の中心地である小川へと分岐する所に江戸時代から現存する道標がある。
「南 右 伊勢 江戸道」。「江戸」とあるように国道166号線は、和歌山から江戸へ通じる幹線道路であったことが伺える。史料をのぞいてみると、江戸初期から約150年間は参勤路として通行され、伊勢神宮参宮路として交通整備が随時行われ、幕末の動乱期における将軍継承問題(和歌山藩主徳川慶福、後の代15大将軍徳川家茂)、海防問題などで幕府役人、和歌山藩士の通行が隆盛を極めたようである。
伊勢神宮参宮を和歌山から向かうと、この鷲家で道路が分岐する。北へ向かえば「北街道(波瀬街道)」、「伊勢本街道(伊勢中街道)」へと通じ、伊勢へ最も安全な道中とされる北街道は、伊勢街道に比べると数倍の行程を辿らなければならない。
また、伊勢本街道は難所の仁柿峠が立ちはだかり、伊勢街道よりも行程が長くなるため、あえて選択する必然性はない。よって、和歌山から伊勢へ参宮する際は、難所高見峠が立ちはだかるものの、伊勢街道が選ばれた。
その伊勢街道も、江戸時代になると交通整備が積極的に行われ、東海道と同じ様に「宿駅」といった交通の要所に旅人の宿や、荷物の運搬に要する人と馬を常備させる場所を一定の距離ごとに置かれた。伊勢街道におけるその一つの宿駅が鷲家であり京都、奈良、和歌山からの旅人が伊勢、江戸へ向かう途中に立ち寄ったのだ。
無論、当世においてはこのような宿駅のような交通機関は衰滅し、現在の鷲家は古民家が立ち並ぶ集落へと変わり、吉野上市、高見山へ向かう行程の通過点に過ぎないほど閑散としている。高見山へ向かう方向にあっては「鷲家トンネル」を通過するだけで、かつての宿駅鷲家の歴史を知らずに過ぎ去ってゆく人も多いのかもしれない。
鷲家を過ぎると、いよいよ奥宇陀である。

旧国道166号線「木津峠」

奥宇陀の始まりといっていい。
国道166号線の旧道は、この先より多く現存し、車による通行が可能な状態である。
当節の新道規格以前の往年の山岳地帯における国道がどのような様相を持っていたのかを十分に知ることができることにおいては好適な道路であると言ってもいいのかもしれない。奥宇陀の旧国道166号線の最初の大きな旧道は木津峠である。
筆者は鷲家方面から登坂し、数分もしないうちに木津峠に到着した。
木津区域における旧道路標識は、木津隧道の周囲に集中し現存しており、古色を帯びており、現下の標識では滅多に見受けられないものもあった。路肩の湧き水は、清冽であり蟹が生息していることから極めて清涼な水質かと思われる。
交通量は過少であり、現道とは比較にならず、地元住民らしき車が2台ほど鷲家方面へ下って行ったがそれのみであった。史料によると、明治16年(1883年)に木津隧道が竣工とあるがこの130年有余の間に手入れは何度かされており、現在でも東吉野村のバスが定期的にこの峠を往来しているようである。木津隧道を抜けると幅員が減少し、ほぼ1車線道路の狭隘な道のりとなり交通が少ないため落ち葉や折枝が道に凋落している箇所も多く見受けられた。木津隧道を高見山方面へ抜けると、標高1300メートルの高見山が勇姿を覗かせており、ここから徐々に標高を上げ、険しい山岳地帯へと近づいていく。

旧国道166号線「木津峠旧国道標識」

木津峠区間の旧国道166号線には、残念なことに既に2018年現在において国道標識(通称おにぎり)が全て撤去済みであった。
もはや、この区間がかつて国道であったことを確証立てるものはないかと思われた。
木津峠を高見山方面に下ると、やがて「奈良県道221号小村木津線」との分岐路にでる。
紀行計画では、この地点で木材に刻まれた行先表示版を撮影する予定であって、これが想定外の収穫を得ることになった。
やや摩滅が進んで解読するのが難しいものもあるが、一つの木版に刻まれた案内板には「国道166号線」との文字が明確に見て取れたのだ。この際会に驚喜し、感興が高まり、これより先の旧道探索にも俄然意欲が沸いたことを覚えている。
分岐路を右折せずに直進すると旧国道166号線が続いているが、2018年8月26日においては崩土のため通行止めの看板がたてられていた。
この旧道の先の状態をある程度確認したところ、問題の崩土箇所(ロックジェットが設置されている箇所)は撤去がほぼ完了していると見られ、近いうちに解除されると思われる。

旧国道166号線「旧シェル石油(木津)」

旧国道166号線と奈良県道251号谷尻木津線が分岐する木津区域には、既に役目を終えた建造物が幾らか残されていた。
既に廃墟化している幼稚園、小学校、ガソリンスタンドなどが見受けられて過疎が深刻である様子であった。この問題は、何も東吉野村だけが陥っている問題ではなく、吉野郡では過疎が起因となって当節でも廃校になる学校の事例が多数見受けられている。(例として、2017年に廃校となった十津川村立小学校西川第二小学校)
これらの形骸化した建物の中で特に関心を持ったものがガソリンスタンドであった。
壁側にシェルネットワークの図面が塗装されており、剥落が進んでいるものの奈良出身のものとしては大体何が書かれていたのかを推測できる。図面をよく見ると国道308号線の暗峠区間と矢田丘陵区間が国道としてなぞられていない。
どのような意図であるかはわからないが、ただガソリンスタンドが無い為に地図に国道をなぞらなかっただけなのかもしれない。
それか、あの道路が正常な道路でないと判断してのことなのか。
旧シェルを前にして、周辺の廃墟から漂う哀感を感じながら、旧国道166号線の先に進むことにした。

旧国道166号線「出合橋旧国道標識」

現存の旧国道166号線の中で、国道標識を現在も掲げ、国道であったと確証立てている区間は2箇所のみ。
奈良県側の出合、三重県側の飯南町の旧国道166号線に標識が撤去されずに残っている。
一つ目の出合橋は、国道標識の他にキロ標識が上に連なっており非常に貴重な遺構の一つである。ただ、一つは完全に腐食、腐朽が進み明確に解読することが困難になってきており、その下のキロ標識についてもやや腐朽が進んでいる。これほど朽ち果てており、解読が容易でない道路標識が顕著に目立つ箇所に掲げられており撤去されないでいるのも珍しい。懐古主義は筆者は賛同ではあるが、ただ単に撤去するのを忘れているだけの可能性が高い。標識というのは、この上ない証拠となり、道路の性格や性質を表す貴重なものであると筆者は抱いているため、個人としてはこのまま存置させ続けて欲しいものである。
また、出合橋の当日の交通量は筆者以外になく、手前の「奈良県道28号吉野室生寺針線」に向けて走り去る車が10台ほどあった。

旧国道166号線「高見峠奈良県側手前の廃道区間」

高見峠入口まで目前と迫り、奈良県と三重県の県境までわずかである。
高見峠の話題に移る前に、手前に旧国道166号線の廃道区間があるため少し取り上げたい。
「杉谷バス停」のすぐ横に黄色いゲートで道を封鎖している道路がある。ここもかつては国道166号線であった。
手前には大きくビックリマークのアイコンで「その他危険」を表す標識が掲げられており、そのすぐ後方には「250m先諸車通行止」との標識が腐朽寸前の状態で警告を発している。腐朽の程度を見るに、随分と年月が経過していることは確かではあるが、いつ通行止になったのかは筆者はわからない。ゲートの先を入ってみると、既に路面が雑草や砂利などで覆い尽くされており、現在は踏み分け道として活用されていることが分かった。自動車が通っていたことを証明づけるものはないかを探索した結果、意外なことに、かつて車道であったことを確証づける「滑りやすい」の標識が現存しており、塗装もほぼ剥落していなかったのである。
この廃道区間に関することを詳しく知りはしたいものの、余りにも局所的なものであり、わざわざ特記するほどの道路改変でもないため、詳細を突き詰めるのは困難であろうし、筆者もそこまで突き詰める気は起こらない。
廃道を後にし、新道を登坂するといよいよ高見峠奈良側の入口である。

旧国道166号線「高見峠奈良県側」

女寄峠、佐倉峠、木津峠と奈良県側の峠を越え、県境近傍まで到達すると、そこは標高約1300mの高見山が聳え立ち、江戸時代から険路として名高い高見峠が待ち構えている。現在は、この高見峠を越えることなく三重県へ容易に入ることができるが、今から34年前の1984年以前はそうはいかなかった。脆弱な土壌の上、蛇行を繰り返す峠道、幾度の災害に被災してきた旧道を通らねばならなかった。
近年、奈良県側の高見峠区間は路肩決壊、崩土などのために通行止めが続いていたが、ようやく最近になって解除になった。
当紀行は、その奈良県側から登坂し高見峠を目指した。
最も通行に困難を極めるこの区間を、当時の様子や状況をなるべく忠実に下記に描写しようと思う。
新道を登坂するとやがて高見峠への案内標識が眼前に現れ、対向車線を両断するかの様に入口は口を開けている。
旧道と放列する様に新道が真横にあり、その対照的な道路の規格差に気味悪さを覚えた。
入口に立ち、筆者を待ち受けていたのは勢いよく道路を流れる雨水、握り拳ほどの落石の塊、枯葉であった。
大量の雨水が道路を洗い、その流水が運ぶ落石が通行を阻み、枯葉が局所的に道路を覆っていたのである。
一旦車から降車し、雨水の流れ出ている元を探りに向かった。
入口から遠くないところで発生しており、入口よりも大きな落石が道路に散在し、この落石の大きさと先の展開を懸念して、奈良側の一つ目の高見峠入口からの走行は断念せざるおえなかった。
間も無く新道に復帰し、しばらくすると「高見トンネル」に到達し、その手前に右折する道が二つ目の高見峠入口であり、高見峠はこの入口から登坂することになった。
一つ目の入口での動揺が収束しない中、高見峠への最終分岐路に差し掛かる。
直進すれば先ほどの一つ目の入口にでる道であり、左折すると高見峠へと至る道である。
高見峠へ至る道路の様相を見るに、枯葉が道路を覆い尽くしており不安は募るばかりであった。
枯葉のみであれば突破できる可能性は高いことを経験則から判断し、撤退の条件は先ほどと同様で「大きな落石、洗い越しの障壁が待ち構えていたら即刻引き返す」ことに定めた。
奈良側の高見峠区間に入り、5分ほど経過。
杉谷隧道にまだ到着しない。
速度は10km未満で走行し慎重に車を進める。
相変わらずの枯葉と路面が局所的に凸凹しており、油断は絶対許されない状況であった。
やがて隧道に到着し、一旦ここで休息を取ることにした。
この時点では、先ほどから募る一方の不安は微塵も払拭されていない。
写真を一枚撮影し終えて、隧道出口を遠目で眺めた限りでは先の展開が同じような気がしてならなかったし、小さく見える警告看板が真っ先に目についたことで、先が思いやられた。
杉谷隧道をくぐり抜けると、不安を増長させていた警告看板を覗き込むと、落石に関することであった。
ここでも写真を一枚撮り終えて、進行方向を確認すると先程までの落ち葉に覆われていた様相が緩和されており先に進めそうであると判断。
これまでの道のりを引き返さずに隧道より先へ歩みを進めることにした。
杉谷隧道を後にして3分ほど経過した頃であっただろうか、真っ赤な警告看板が突如脅しをかけてきたのである。
「100m先幅員減少 路肩決壊」。
杉谷隧道を過ぎて動揺、不安が若干和らいだ矢先のことであった。
「高見峠区間の計画はここで断念すべきかもしれない。念のため、徒歩で決壊の具合を確認しよう。」
心中は高見峠区間の旧道の踏破に諦観を抱いたも同然であった。
「100m先」「50m先」「この先」徐々に決壊地点に接近し、現場に到着した。
先入観は物事の真実を歪曲させる。
決壊地点は慄然たるほどの状態でもなく、一部が崩落した程度であった。
何事も一度自身の目で確認すべし。それが活きた。
自動車走行に支障が無いと判断できたので更に歩みを進める。
歩みを進めて数分間、緒戦の悪条件が幻想であったかのように遍在的な山道が続き、やがてS字カーブの地点に到達。ここは小峠と称されており、大峠である高見峠と合わせて称されたのであろう。
小峠を過ぎると高見峠までは目と鼻の先であり、危険な局面に遭遇することはなかった。
一体、緒戦の情けない自身の小胆さはなんであったのであろうか。
峠に到着した時、緒戦の動揺と不安は既にどこかへと消え去っていた。
ともかくも、高見峠へと到着したのである。

旧国道166号線「高見峠」

奈良県側から登坂して15分ほどであった。
二車線の緩やかな坂の先に看板が見え、奈良と三重の境に入る。
悠遠な青空が広がっており、気温28度ほどの爽涼な山風が吹き抜けており、これまでの不安は霧消した。
標高904メートル。この峠が歴史上、最初に高名を得たのは江戸初期であった。
和歌山藩徳川の参勤交代路として整備されたことが契機であり、伊勢街道の道中に存在する峠である世に周知されたのである。
ただ、その高名の裏ではその整備費が相当物入りで大掛かりであったらしい。
木津組といった平野、杉谷、滝、谷尻の高見峠界隈の4ケ村の連合組合が入費したようで、殿様がこの街道を往還する度に整備を行った様である。
この参勤路の高見峠に至る道路はどのような状況であったのかを知るには、1832年に著述された「高見峠道直シ寄付帳」に記載がされている。
「冬に至っては大雪降り用が向かず、夏に至っては草木が生い茂り、雨、霧があり衣服、体に影響あり、荷物の運搬などに難渋した」。
山岳地の幹線道路は、技術が進んだ当代においても自然の脅威には打ち勝てず、同じような状況に晒されている道路は依然多くある。
筆者が登坂した旧国道166号線についても、江戸期の道路とまではいかなくとも、自然の動向に対して完全に受身の態勢を余儀なくされている。
当紀行は夏季に高見峠を訪れている。
冬季となれば無論、自然状況が違ってくる。
積雪地帯の高見峠に冬に登坂することを想像するに、先ほどの奈良側からの登坂経験を照らすととてもできそうにない。戦後の高見峠に至る道路が依然この様な険路であるからには、戦前のこの道路は史料にある通り非常に難儀をしたに違いない。

旧国道166号線「高見峠三重県側」

※三重県側の高見峠に至る道路状況は、YouTubeで実況を配信しています。
https://youtu.be/EN3MFjVH28E

高見峠を30分ほど滞在し、清涼な空気を堪能し、いよいよ降坂である。
事前調査で、三重側の行程は奈良側の約2倍であることと、極めて悪路であると確認していた。
いざ降坂、その緒戦である。
奈良県側で体感したあの恐怖がまたしても再現されたのである。
出立時点で道路が枯葉、折枝で覆われており、アスファルトが目視できない。
どのような観点から見ても前進するのは危険であり、奈良側から降坂するのが至当。
ただ、数台の乗用車とバイクが三重側から登坂している事実により、この先を突破できることは明確であった。
もし仮に当日、高見峠に到達している車が筆者のみであったのであれば、確実に奈良側から降坂していた。
降坂を開始してからの数分間が最も状況が劣悪で、舗装の欠損、落ち葉、折枝、砂利道の区間が次々と襲いかかり、速度も10kmに満たないほどの慎重さを極めた箇所が多々あった。
折枝に関しては、手で撤去しなければならないほどの大きなものも道を塞いでおり、廃道間近の様相を呈していた。
景色が広く開ける箇所も2箇所ほど点在していたが、道路全体の状況に圧倒され、壮観な景色に対して感慨にふける余裕など微塵もない。
状況からして、新道と合流するのが最優先事項であったし、車を随時停車させて実地検分するほどの悠長なことはできなかった。
徒歩であれば心境は全く違っていたであろう。
約5キロの道のりに自動車で20分を要した事実により、三重県側の高見峠区間が現在でも難路であることを断言しても過言ではないであろう。
一例として、筆者は奈良県十津川村と和歌山県の龍神村を結ぶ国道425号線を約90分で走破した経験があり、その距離は47キロであり平均速度は約31km出会った。
これと比較すると、高見峠の三重県側が如何に通行するのが困難であるのかを伺うことができる。
この様な峻険な山岳地を江戸期は、自動車など交通手段ではなく、徒歩で峠を越えていた。
当代においても徒歩であれば、筆者が体験した高見峠越えの道路状況の実録など誇大表現であったろうし、極言であると感じられるだろう。
無論、「高見峠道直シ寄付帳」に見られるような交通事情であれば徒歩でしか越えることはできない。
交通手段は明治期になり一転したが、この峠が難所であることは今昔問わず変わっていない。
当日難儀をする局面は多岐に渡ったが、筆者はこの峠を無事越え、伊勢に入国し、高見峠に関する計画を無事完遂することができたのである。

国道166号線「高見峠ループ橋」

旧国道166号線高見峠を越え、新道に合流した時の生新の気を覚えた感覚は印象的であった。
新道と旧道の様相は対照的であり、このループ橋へと続く現道が天国に思えた。
やがて、展望のひらけた橋に到着した時は橋梁、隧道の建造技術的進歩の恩恵は絶大なるものであると感慨に浸った。危険で狭隘な旧道はこの橋の北側で依然として複雑な蛇行を繰り返しながら降っているが、この新道は非常に滑らかに降り、円滑な交通を実現させている。
既に三重県に入っている。
旧道探索も残すとこ僅かである。当紀行はこれより仕上げの段階へ入ることになる。

旧国道166号線「旧道に残された国道の確証」

既に各旧国道166号線を裏付ける物的証拠は、奈良県側でも至る所で確認することができた。
三重県側に至っても、旧道にかつて国道166号線であったことを示す標識が数多く残されている。
旧道の標識を観察すると表記の仕方が面白く、例えば「高見峠へ」と期待するところを「高見峠え」と表記している物や、「高 見峠」、「7 1km」など文字間隔に統一性や視覚性を欠いていたりするものは珍しくない。
三重県側では飯高町木梶の旧道に旧標識が点在しているが、事前調査で確認した腐朽と腐食が著しく進んでいる錆びた国道166号線の標識が見当たらなかった。道路脇に草に埋もれていると情報を得ていたが、筆者が現場を確認したところ既に土に埋没してしまっているのか、撤去されたのかは不明であるが見当たらなかった。
三重県側旧国道166号線の交通量に関しては、一台のジムニーが旧道を走り去ったのみで、新道に全て流れていると言ってもいいかもしれない。

旧国道166号線「竿竹国道標識」

当紀行の最後の旧道探索。物干し竿国道標識を探せ!
事前調査で、ある珍妙な標識を発掘した。
洗濯物の物干し竿の柱として私物化されてしまっている標識を発見したのである。
これには感興が極まり丁度、奈良県へと引き返す国道368号線との合流地点にも近く、最後の探索地点として計画に持ち込んだ。これほど顕著に存置されていると撤去されている可能性は非常に高い為、半ば期待を抱かず存置されておれば運が良いと軽い気持ちでことにあたった。
高見峠を後にして3時間ほどは経過したであろうか、途中に道の駅と珍布峠に立ち寄り、いよいよ旧道探索も終点を迎える旧道へ入る。
相変わらずセンターラインのない旧道を直進すると、右手に杉林の一角が現れ、目的の国道標識が飛び込んできた。
何かが足らない。
珍百景として標識と一体化しているはずの竿竹が撤去されていたのである。
これには若干興ざめたが、きちんと存置されているだけでも大収穫であった為、気持ちを即刻改めた。
現下は旧道に佇む国道の遺構として現存しており、竿竹とは分離されてはいたが、今回の紀行の最終目標を無事達成した。
この遺構を近隣住民はどのような価値観で見つめているのであろうか。
単なる洗濯物干しの便宜を図る道具の一部なのであろうか。
かつてこの道が国道166号線であったことを確証づけるものとして捉えているのであろうか。
既に国道としての役目を終えている道路であるから、後年撤去される日が来る可能性は高い。
筆者としては、このまま遺構として存置させておいてほしい。
筆者のように、遺構に惹かれて新道が敷設される以前の旧道の世界を楽しみ、もし貴殿が技術職人であれば何かしら示唆を与えてくれるかもしれない。

当紀行を終えて

午前7時、奈良県桜井市粟原女寄峠より発し、午後17時10分、三重県松阪市飯高町下滝野現道国道166号線に至るまでの10時間に及ぶ紀行は、途中高見峠奈良側の第一入口の一箇所を除いて完遂した。
気温は山岳地ともあって、30度前後であった。
当紀行の伊勢南街道は、伊勢本街道の仁柿峠(櫃坂)のように大難路地点におけるバイパス未開通問題は既に解決されており、三重県側の飯高町七日市を走る国道166号線を除けば爽快な道路であった。鷲家バイパス、高見国道(高見峠一帯の交通)、田引バイパスが開通してしていなければ、当代の伊勢参宮は全て北街道(国道165号線)へ流れていたかもしれない。それほどまでに、国道166号線の旧道は狭隘な区間が多く、時節の景物や災害による影響を受けやすく、特に高見峠越えには交通が過多傾向を辿ると渋滞を引き起こし、事故が多発することを現地に訪ねることで容易に推断することができる。
国道166号線の旧道は、沿線に集落がない限り数少ない地元住民以外の通行は期待できず、枯葉や折枝が道路を覆っている状態であった。
旧道に残された国道を確証づける遺構は、年々失われていくのかもしれない。
10年有余前の写真には存置されていたものが、当紀行では撤去されているものも多く、自然の中に埋もれてしまって確認できないものもあった。
現在の時点で通行が可能である旧道もいずれは完全に役目を終える日が到来し、一部の標識がそうであったように自然に帰る可能性は十分に感じられた。
致命的な被災を受けて、車道としての役目を終え、新道に完全に役目を渡し、杉谷バス停横の旧国道166号線廃道のように踏み分け道になる時が近いうちに到来するのかもしれない。
今回の旅は、日本屈指の山岳地である紀伊山地の口吉野、奥吉野には属さない東吉野村山岳地の旧道実録を行うとともに旧道の遺構を探索するものであった。
これほどの旧道が車道として現役を続けているのも、奥吉野と比較すれば大きな災害の少ない奈良県東部の山岳地帯であるからなのかもしれない。
無事計画を完遂させ、無事紀行を終えたことが何よりの収穫であり、次回の紀行も有意義に新たな旅情に浸りながら遊歴をしようと思う。

2018.08.26 紀行録「旧国道166号線」

交通の難易度

旧国道166号線女寄峠区間:★(1/10)
旧国道166号線木津峠区間:★★★★★(5/10)
旧国道166号線高見峠区間:★★★★★★★★(9/10)
現道国道166号線:★(1/10)
珍布峠(西側):★★★★★★★★(9/10)
珍布峠(東側):★★(2/10)

国道166号線沿線の食事処(女寄〜粥見)

道の駅 ‎宇陀路大宇陀(奈良県宇陀市大宇陀)
おふく茶屋( 三重県松阪市 飯高町波瀬)
波瀬駅(三重県松阪市飯高町波
・はぜの風(三重県松阪市飯高町波)
・かみや(三重県松阪市飯高町加波
・道の駅 飯高駅(三重県松阪市飯高町宮前
道の駅 茶倉駅(三重県松阪市飯南町粥)

国道166号線沿線の観光(女寄〜粥見)

・うだ・アニマルパーク(奈良県宇陀市大宇陀)
・森野旧薬園(奈良県宇陀市大宇陀)
・又兵衛桜(奈良県宇陀市大宇陀
・カエデの郷「ひらら」(奈良県宇陀市菟田野古市場
天空の庭 高見の郷(奈良県吉野郡東吉野村杉谷
・高見峠、高見山(奈良県吉野郡東吉野村杉谷)
・珍布峠(三重県松阪市飯高町赤桶

当記事に関する動画配信

▼実況・ノーカット版 高見峠三重県側
https://youtu.be/EN3MFjVH28E
▼ダイジェスト版 高見峠
https://youtu.be/sMSf_EutEzY